大田原キリスト教会の今週のメッセージからです
ダウンロードして聞きました。
タイトルは、『神の国は来ている』です。
人はあの人よりも自分は優れていると思うのではないでしょうか?
または、自分よりも劣っていると思われる人を捜し、その人と自分を比べて安心しているなんてことはないでしょうか?
聖書はいいます、「互いに人を自分よりも優れた者と思いなさい。」
神様は全ての人を価値有る大切なものとして愛して下さっています。全ての人がすばらしいのです。
人間の限られた狭い見方であれば優劣を付けてしまいますが、創造主から見たらみんなにたりよったりです。
全ての人がすばらしいのです。優れた人なのです。
人を自分よりも優れた者とする。
みんながこのことを真に思うことができたらなんてすばらしいと思った一時でした。
2008年05月14日
2008年05月11日
信じた通りになります
先日は、ビィンヤードクリスチャンフェローシップ所沢の礼拝に参加しました。
タイトルは、「神の国の訪れ」でした。
聖書に、「信じた通りになるように」(マタイ8:13)
イエス様が言った言葉です。
そして、病気の彼は信じた通り、直りました。
祈り、求め、主の御心にかなっていれば、
信じた通りになります。
信じた通りになるのです。
大丈夫かな?こんなこと本当に起こるのかな?
と「信じていなければ」かないません。
「主の御心なら直ります」と口で言っていても、心の中で、本当かなと疑っていたら起こらないでしょう。
しっかりと信じて、祈っていこうと思った一時でした。
タイトルは、「神の国の訪れ」でした。
聖書に、「信じた通りになるように」(マタイ8:13)
イエス様が言った言葉です。
そして、病気の彼は信じた通り、直りました。
祈り、求め、主の御心にかなっていれば、
信じた通りになります。
信じた通りになるのです。
大丈夫かな?こんなこと本当に起こるのかな?
と「信じていなければ」かないません。
「主の御心なら直ります」と口で言っていても、心の中で、本当かなと疑っていたら起こらないでしょう。
しっかりと信じて、祈っていこうと思った一時でした。
2008年05月04日
求めなさい、そうすれば与えられます
本日は、大田原キリスト教会の礼拝に参加しました。
タイトルは「求めなさい、そうすれば与えられます」(ルカ11章5-13節より)でした。
■こんな願いをしていいものかどうか?
そんなことを思うことがありますよね。
普通に考えたら、
「常識はずれだよ」
「あつかましい願いだな」
「迷惑をかけていないかな」
と思って、求めることをやめてしまうことがありますね。
でも、それでも、求めなさいと聖書は言っています。
■求めなさい
創造主の御心であれば、強く祈り求めればかなえられます。
「あつかましい願い」かどうか、
「迷惑をかけてしまう」かどうか
なんて人にはわからないものです。
ですから、強く祈り求めることが大切なのです。
自分勝手に「こんなこと求めたらいけないのではないか」なんて考えて、求めることをやめる必要はありません。
求めていいのです。
願いをかなえるかどうかは、創造主の判断なのですから。
そして、求めなさいと聖書は言っているのです。
こんなこと、求めていいのかなと思わず、祈り求めていこうと思ったひと時でした。
タイトルは「求めなさい、そうすれば与えられます」(ルカ11章5-13節より)でした。
■こんな願いをしていいものかどうか?
そんなことを思うことがありますよね。
普通に考えたら、
「常識はずれだよ」
「あつかましい願いだな」
「迷惑をかけていないかな」
と思って、求めることをやめてしまうことがありますね。
でも、それでも、求めなさいと聖書は言っています。
■求めなさい
創造主の御心であれば、強く祈り求めればかなえられます。
「あつかましい願い」かどうか、
「迷惑をかけてしまう」かどうか
なんて人にはわからないものです。
ですから、強く祈り求めることが大切なのです。
自分勝手に「こんなこと求めたらいけないのではないか」なんて考えて、求めることをやめる必要はありません。
求めていいのです。
願いをかなえるかどうかは、創造主の判断なのですから。
そして、求めなさいと聖書は言っているのです。
こんなこと、求めていいのかなと思わず、祈り求めていこうと思ったひと時でした。
2008年04月29日
罪は赦されます
本日は、大田原キリスト教会の礼拝に参加しました。
タイトルは「祈ることを教えてください」(ルカの福音書11:1〜4より)でした。
■人は罪を犯します。
そして、その罪を犯したという気持ちはいつまでも自分の心の奥底に残ってしまいます。
いけないことをした、自分はいけないものなんだなどと思いながら生きている人は多くいると思います。
■赦されます
「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(1ヨハネ1:9)
この聖書の箇所から、クリスチャンは罪の赦しを確信しています。
これはクリスチャンである特権です。
罪をイエスキリストに言い表すなら赦されるというのです。
謝るだけで赦されるなんて、そんなのでいいのか?と思う人も多いと思います。
でも、聖書に書かれているのです。
イエスキリストを信じ、罪を言い表すなら創造主は赦してくださるのです。
そして、人は自分の罪を赦されることによって解放されます。
クリスチャンにはこの罪は赦されるという確信があります。
クリスチャンの罪の赦しのすばらしさを感じた一時でした。
タイトルは「祈ることを教えてください」(ルカの福音書11:1〜4より)でした。
■人は罪を犯します。
そして、その罪を犯したという気持ちはいつまでも自分の心の奥底に残ってしまいます。
いけないことをした、自分はいけないものなんだなどと思いながら生きている人は多くいると思います。
■赦されます
「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(1ヨハネ1:9)
この聖書の箇所から、クリスチャンは罪の赦しを確信しています。
これはクリスチャンである特権です。
罪をイエスキリストに言い表すなら赦されるというのです。
謝るだけで赦されるなんて、そんなのでいいのか?と思う人も多いと思います。
でも、聖書に書かれているのです。
イエスキリストを信じ、罪を言い表すなら創造主は赦してくださるのです。
そして、人は自分の罪を赦されることによって解放されます。
クリスチャンにはこの罪は赦されるという確信があります。
クリスチャンの罪の赦しのすばらしさを感じた一時でした。
2008年04月23日
訓練校
現在宇都宮の職業訓練校にて「電気通信」を学んでいます。
これを機会に、電気工事士2種の資格を取得しようと、電気工事の基本を学んでいます。
とここで一枚、
こんなことをやっています。
おもしろいでしょ!
楽しく学ばさせていただいています。
資格合格の際には、皆さんの家の電気工事しますよ、声をかけてくれませ!!
2008年04月22日
2008年04月21日
初代ロゴス号に会う
イヌマヌエル王子教会の礼拝に参加しました。
電車のほうが便利だということで、電車で行って来ました。
で、電車代がかからない幼稚園児の次男と二人で行って来ました。
昨年のVIPというクリスチャンビジネスマンの集まりで席が隣になり、話をして訪問させてもらえることになり、昨日訪問したのです。

■初代ロゴスの資料
そこで、なんと1978年の資料を見せてくれたのです。
きれいに保存されていました。
初代のロゴス号が横浜に来航した際の資料です。
ポスター、チケット、トラクトなど一式保存されており、見せてもらいました。
なんだか感動です。1973年の来航時の資料もあるのではないかということでした。
あ、写真とるの忘れた。
「私が持っていても仕方がないから、整理が終わったら後で送るよ」といってくれました。
後でみんなに見せられたらなと思います。
電車のほうが便利だということで、電車で行って来ました。
で、電車代がかからない幼稚園児の次男と二人で行って来ました。
昨年のVIPというクリスチャンビジネスマンの集まりで席が隣になり、話をして訪問させてもらえることになり、昨日訪問したのです。
■初代ロゴスの資料
そこで、なんと1978年の資料を見せてくれたのです。
きれいに保存されていました。
初代のロゴス号が横浜に来航した際の資料です。
ポスター、チケット、トラクトなど一式保存されており、見せてもらいました。
なんだか感動です。1973年の来航時の資料もあるのではないかということでした。
あ、写真とるの忘れた。
「私が持っていても仕方がないから、整理が終わったら後で送るよ」といってくれました。
後でみんなに見せられたらなと思います。
2008年04月14日
主のみこころを知り、そして従うこと
本日は、山形県の蔵王キリスト教会の礼拝に参加しました。
メッセージのタイトルは「キリストにある成人として」でした。
「自分で考えろ」「自分を持て」「他人に頼るなんて弱い人間だ」
などなど思う人が多いのではないでしょうか?
「如何に自立し、自分の力で人生を切り開いていくか」ということが人間の歩むべき道であると考えている人が多いと思います。
しかし、聖書の考えは違います。
人間は、聖書のいう創造主に創られたと考えます。
そして、我々人間を創った創造主が私たちに最高にぴったりのことを知っていると考えます。
そして、私たちが創造主に頼り、謙遜に、創造主に「私は何をしたらいいのか」を聞く時に、いろいろな方法で私たちに次に何をすべきかを示してくれると信じています。
創造主に委ねる時、最善の方法が与えられ、成功します。
創造主に全てを委ねることができるということはすばらしいことだなと思った一時でした。
メッセージのタイトルは「キリストにある成人として」でした。
「自分で考えろ」「自分を持て」「他人に頼るなんて弱い人間だ」
などなど思う人が多いのではないでしょうか?
「如何に自立し、自分の力で人生を切り開いていくか」ということが人間の歩むべき道であると考えている人が多いと思います。
しかし、聖書の考えは違います。
人間は、聖書のいう創造主に創られたと考えます。
そして、我々人間を創った創造主が私たちに最高にぴったりのことを知っていると考えます。
そして、私たちが創造主に頼り、謙遜に、創造主に「私は何をしたらいいのか」を聞く時に、いろいろな方法で私たちに次に何をすべきかを示してくれると信じています。
創造主に委ねる時、最善の方法が与えられ、成功します。
創造主に全てを委ねることができるということはすばらしいことだなと思った一時でした。
2008年03月30日
弱いものを用いてくれます
本日は、大田原キリスト教会の礼拝に参加しました。
タイトルは「収穫のための働き手となって」(ルカ10章1-16節より)でした。
■弱くても用いられる
普通に考えると、強い人、優れている人が好まれ、用いられるのだと思います。
劣っている人より優れている人を好むと思うのです。
だから、世間一般には、劣っている人は進化し、成長しがんばれよというのだと思います。
しかし、聖書はそうではないと言うのです。
イエスキリストは、「狼の中に小羊を送り出す」といっています。
小羊のような弱い、劣っているようなものを用いるというのです。
こんな弱いものでもイエスキリストは用い、力を与え、その使命を全うさせてくれるのです。
■結果は主にゆだねる
そして、結果は全てイエスキリストが責任を取ってくれるというのです。
弱いものであるが、イエスキリストを見上げ、与えられた使命を精一杯行えば後はイエスキリストが責任を取ってくれるというのです。
安心して与えられた使命を全うしなさいということです。
私たちも使命を創造主から与えられました。
長期的に見ればどうなるか、わかりません。
しかし、このような弱いものをも用いてくれることを感謝し、結果の責任はイエスキリストが取ってくれることを信じ、一歩一歩、しっかりと安心して歩んでいきたいと思ったひと時でした。
タイトルは「収穫のための働き手となって」(ルカ10章1-16節より)でした。
■弱くても用いられる
普通に考えると、強い人、優れている人が好まれ、用いられるのだと思います。
劣っている人より優れている人を好むと思うのです。
だから、世間一般には、劣っている人は進化し、成長しがんばれよというのだと思います。
しかし、聖書はそうではないと言うのです。
イエスキリストは、「狼の中に小羊を送り出す」といっています。
小羊のような弱い、劣っているようなものを用いるというのです。
こんな弱いものでもイエスキリストは用い、力を与え、その使命を全うさせてくれるのです。
■結果は主にゆだねる
そして、結果は全てイエスキリストが責任を取ってくれるというのです。
弱いものであるが、イエスキリストを見上げ、与えられた使命を精一杯行えば後はイエスキリストが責任を取ってくれるというのです。
安心して与えられた使命を全うしなさいということです。
私たちも使命を創造主から与えられました。
長期的に見ればどうなるか、わかりません。
しかし、このような弱いものをも用いてくれることを感謝し、結果の責任はイエスキリストが取ってくれることを信じ、一歩一歩、しっかりと安心して歩んでいきたいと思ったひと時でした。
2008年03月16日
想像を絶することをしてくださいました
本日は、北本福音キリスト教会の礼拝に参加しました。
タイトルは「十字架の勝利」(マタイ27章45-56節より)でした。
イエス様は、十字架の上で、3時間の間、イエス様は、裁きとのろいを受けました。
12時に十字架に張り付けられ、3時間もの間イエス様は人々への裁きとのろいを受けたのです。
イエス様は常に主と一体であったのに、離れたのです。
どんな人であっても、どんな愛であっても主の愛から引き離されることはありません。
人が地上にいる間、主は一方的に人々を愛してくれるからです。
しかし、イエス様だけが主の愛から離れる経験をしたのです。
私たちには想像できないことです。
愛されていないと感じている人もいるでしょうが、主は一方的に愛しておれられるのです。人間の愛ではなく、主の愛で愛してくれているのです。
この主の愛から離れる経験をイエス様はしたのです。
ものすごいことです。
そして、このイエス様の死がなければ私たちは主のもとへ行くことができませんでした。私たちのために、イエス様は、ものごい苦しみを受けてくれたのです。
イエス様のしてくださったことの大きさを感じ、感謝できた時でした。
タイトルは「十字架の勝利」(マタイ27章45-56節より)でした。
イエス様は、十字架の上で、3時間の間、イエス様は、裁きとのろいを受けました。
12時に十字架に張り付けられ、3時間もの間イエス様は人々への裁きとのろいを受けたのです。
イエス様は常に主と一体であったのに、離れたのです。
どんな人であっても、どんな愛であっても主の愛から引き離されることはありません。
人が地上にいる間、主は一方的に人々を愛してくれるからです。
しかし、イエス様だけが主の愛から離れる経験をしたのです。
私たちには想像できないことです。
愛されていないと感じている人もいるでしょうが、主は一方的に愛しておれられるのです。人間の愛ではなく、主の愛で愛してくれているのです。
この主の愛から離れる経験をイエス様はしたのです。
ものすごいことです。
そして、このイエス様の死がなければ私たちは主のもとへ行くことができませんでした。私たちのために、イエス様は、ものごい苦しみを受けてくれたのです。
イエス様のしてくださったことの大きさを感じ、感謝できた時でした。